たまりんの日記

のほほーんと生きています

「仲間」という言葉が放つ薄気味悪さ

どうも「仲間」という言葉が好きになれない。というのも、「仲間」を平然と使用している人に限って問題が発生すればその「仲間」を易々と切り捨てる印象があるからで、もう純粋に仲間という言葉を眺められるのは漫画やアニメの世界くらいしかないのではないかというくらい、「仲間」は空想・想像・幻想・架空・娯楽的要素を暗示するメタファー的性質を保有していると思っている。漫画やアニメで語られるそれは決して裏切らない。

 

「仲間」は聞こえだけはいいが、実際のところ中身は空っぽの虚無的な言葉だ。UFOキャッチャーで獲得した大きなお菓子箱の中身がこれでもかというくらい少量だったり、ジャムパンを食べていたらジャムまでなかなかたどり着かないガッカリ感と似ている。比喩が適切かともかくとして、要するに期待水準に対する達成水準があまりにも低すぎるということ。

 

現在、私が観測する限り「仲間」はその場しのぎの弥縫策のような用途に与している。例えば組織内で摩擦や軋轢が生じたとき、それらが生じた原因の把握と改善策を考える必要がでてくるが、人間関係の摩擦や軋轢は、組織のシステムやアーキテクチャの柔軟かつ弾力的な変革だったりで対応できるものだが、業務上どうしても対応できない場合もある。そんなときに、「仲間」の出番が回ってくる。
「仲間なんだから一緒にがんばっていこう」
「おれたち仲間だろ、な?」
「仲間なんだからそれくらい許そう」
みたいな、気休め程度の感じで「仲間」は消費される。

 

どうしようもなくなった最後の選択肢として「仲間」がチョイスされるのは、組織の擬集性や士気が一時的にでも高まり取り敢えずはそれで落着するからで、当たり前だが「仲間」を持ち出したところで問題の根本的な解決にはならない。つまり「仲間」は集団組織内のゴタゴタを沈静化したい人が問題を一時的に棚上げして先延ばしにするだけの便宜的に運用する程度の方便でしかなく、瓦解しそうな関係性を一時的に繫ぎ止める紐帯のような役割しか担わない。

 

また、普段から仲間仲間と宣っておきながら、その仲間が失敗したら踏み台にしてマウントを取り優越感に浸っている人は悲しいかな少なからず存在する。そういう人は常に他者と自分を比較し、優劣を気にしている。同時に劣等感に苛まれやすい人でもある。比較を自己研鑽のインセンティブ(動機付け)として使うのではなく他者を貶め揶揄嘲笑し自己肯定感を得るために使う。「仲間」はそのような人たちが他者を踏み倒すための好都合な言葉に堕落してしまっている。

 

恐らく、本当の仲間は「仲間」という文言を使わない。そんな言葉を使う余地もないほどにラポール(相互信頼)が構築されている。だから、都合よく「仲間」という言葉を引き出す人は、正直信用できないし手練手管で人心を掌握せんとする狡猾な人のように思う。恣意的に利用する人以外で純粋にそれを信奉している人もいるのだろうけど、あまり信用できないほどに私の頭はレスポンデント条件付けの如く「仲間」を頑なに拒絶している。

 

そういう意味で、「仲間」という言葉やそれを含む言説にはある種の気持ち悪さを覚える。距離を置いたほうが得策じゃないだろうかと考えているが些か過剰なのかもしれない。しかし、レトリック(美辞麗句)には注意しなければならないし、発言されたその言葉の真意はどこにあるのか考えることに少なからず意味はあると思っている。