たまりんの日記

のほほーんと生きています

小さな権力者

権力に実体はない。

 

「サピエンス全史」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリさんの言葉を借りるならば、権力は国家や企業や宗教、貨幣などと同じで、人々がその価値を強く信じるが故にその存在が認められる「虚構」である。だが、たとえ虚構であると理解していても人は実体のない権力の存在を強く感じ、意識してしまう。権力は政治家や企業のCEOとか、何か特別な地位に位置付けされている人々のみに必ずしも付与されているものではなく、もっと身近なところにある。それが、例えるならば先輩と後輩、上司と部下の関係性でいうところの先輩と上司であって、たとえ年齢や勤続年数がたった一年の差であっても、何らかの関係の中で「先」「上」というポジションにいる人には権力が生じている。だから、権力が不当に行使されていないかどうか監視するという意味で、こういった“小さな”権力者達も自らの権力に対して自覚的にならないといけないのだが、そこのところを理解せずに知らず知らずに権力を振りかざしている人は少なからずも存在する。

 

そういう人が、知らず知らず権力を振るってしまい相手を傷つけたときに言う弁疏というか常套句は、往々にして「そうするつもり(意図)はなかった」とか「また何かあればすぐ注意してくれればいい」であって、これは裏を返せば「意図がないのだから許してくれ」「おれは自ら変わる気はないよ」という意思表明でもあるわけで、つまるところ、権力に無自覚な人は「自分には権力はない」「(相手と)対等な関係を構築できている」と誤解・錯誤しているのである。

 

また、権力に無自覚ではないものの自らの権力の大きさを正確に測りきれない人もいる。「何かあれば質問してもらって構わない」と一言斟酌しながらも、質問しなければ「なぜ質問しないんだ」と諌めるのは、これだけ言っておけば大丈夫だろう、と安心し自分は上下関係に配慮しているのだからあとはそっちの問題だと考えているからで、権力によって生じるコミュニケーションの壁を取っ払らうことができていると誤解・錯誤している。権力の存在はそんな簡単に希釈できるものではない。希釈するには権力者側からの継続的且つ能動的なコミュニケーションが必要だ。ただ、コミュニケーションを取るにも注意が必要なのは、距離を縮めるためにふざけたり、下品になったりするときに、そこに不自然さ(意図してやってる感)が介在してしまうと逆効果になってしまう可能性もあるので、その辺りは念頭に置かなければならない。

 

無論、権力関係(上下関係)を全くもって気にも留めない人もいる。だけれど、そういう人は経験則上マイノリティであると思うし、多くの人は少なからず意識してしまうだろう。忌憚なく会話できる関係を構築するのは本当に難しく、粘り強く接していく必要がある。

 

権力を掌握するものはその大小に関わらず、その優越的地位を自覚し弱い立場にある者が萎縮しないよう最大限配慮せねばならない。それが先輩であり上司である権力者の務めだ。この世俗に年功序列ヒエラルキーを重んじる精神がある以上、社会生活を送る全ての人がエスカレーター式に”小さな”権力を握ることになる。それに気付くことなく後輩や部下に対して「聞きたいなら聞けばいい」的なスタンスで接し、聞いてこなければ「なぜ聞いてこない」と憤慨するようでは、後輩や部下は更に聞きづらくなるだけだし、そのような文化を醸成するとミームが継承され同様の人間を再生産してしまうだろう。


権力が権力たり得る実効力を有する所以は、スポーツにおいて負ける選手がいなければ金メダルを獲得してもその価値がないのと同じように、権力を振るわれる側がいなければ権力の価値がないことだ。故にスポーツ選手は自らが下してきた選手をリスペクトせねばならないし、これは権力者にも同じことがいえると思う。

 

普段から後輩や部下に対して自由気ままに講釈を垂れているのなら、自分だけでなく「下」にいる者も自由気ままに動けるように最大限努力するのが「上」に立つ“小さな権力者”たる者の“ノブレスオブリージュ”ではないかと思う。