たまりんの日記

のほほーんと生きています

「不良品」という単語がもつ意味

 

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川崎殺傷事件に関して、ある人は「人間が生まれてくる中で、どうしても不良品っていうのは何万個に1個、絶対に生まれる。」と言及し、その発言に呼応するかのように、ある人は「サイコパス遺伝子を持った個体ができるのは人間以外の生物でも見られます。突然仲間を殺傷し始めます。」と先の見解に賛同したようだ。

 

これらの言説について違和感を覚えるのは、「生来的」「先天的」「遺伝的」などのアプリオリ関連の主義主張がふんだんに盛り込まれていることだ。これらが結局のところ言いたいのは、「人間のパーソナリティや、それに基づく行為は生まれながらにして決定されている」ということで、「不良品」という言葉はそれを端的に形容していると思う。

 

人間のパーソナリティに遺伝子は少なからず影響するだろうけども、生まれてから自分が置かれる環境や境遇、その中での社会的相互作用にも影響は受けるはずだ。そもそも、遺伝と環境という二つの概念はどちらが正しいかを争うような二項対立する概念ではなく、表裏一体の関係性であって、だからこそ、生来的、先天的、遺伝的性質にラディカルに傾斜している「不良品」という例えは、環境というファクターを無視した一元論に終始することで、社会的逸脱者に対する峻厳で秋霜烈日な態度を肯定し、罪を犯した人や前科のある人たちへのステレオタイプ、偏見を助長して、再チャレンジの機会や社会復帰するための障壁を増強し、社会福祉の後退を促す。平然と他人のことを不良品と開陳できる人は、「このジャガイモは傷物だし、商品にならないから廃棄処分だ」的な感じの歩留まり的な観点で人を見ている。

 

論点をすり替えているつもりはない。無論、犯罪にも大なり小なりはある。だが、人間は認知不可をかけたくないがあまり、物事の奥深くの複雑さから目を背け、表面だけを見てしまったり、単純で浅薄で短絡的なステレオタイプ思考を志向してしまいがちだ。或いは他人への峻厳な態度を示すことで、自尊心を向上させたり、自らが優良品であるということを悟りたいのかもしれない。そういう意味で、たとえ殺人鬼であったとしても不良品などという文言を堂々と言ってのけるのは、罪の軽重を問わずして前科のある人たちに対する負のラベリングを加速させることになるわけで、不適切であり、愚妹であり、詭弁であると言わざるを得ない。

 

それにサイコパス=殺人鬼ではない。脳科学者の中野さんの著書「サイコパス」には、大体100人に1人の割合でサイコパスが存在することが様々な研究で明らかにされていると記載されている。つまり、サイコパスの中でも大半の人はふつうに日常生活を送っているし、恐らく、気付いていないだけで誰もが一度は接点を持ったことがあるはずだ。であるから、サイコパス=殺人鬼乃至は犯罪者みたいな認識を持つこと自体、誤謬なのは自明である。

 

「生来的」「先天的」「遺伝的」「生得的」のような、アポステリオリを無視したアプリオリ一辺倒の論理を展開する人が最終的に帰趨する着地点は、「優生思想」である。旧優生保護法の下で実施された強制不妊手術は、障害を抱えながらも子供を産みたい、育てたいと望む人々に対して、「不良品」というレッテルを貼り、その意思を軽んじ、人々の尊厳や人権を著しく蹂躙した。2019年5月28日、その旧優生保護法下における強制不妊手術に対し、裁判所は幸福追求権を規定する憲法13条に照らして違憲判決を下した。だが、そのような判決がなされた現代社会においても、残念ながら優生思想は静かに息を潜めているようだ。そしてそれは自分自身が統括している意識の外にある無意識的な世界で跳梁跋扈しているのかもしれない。であるならば、今一度自分自身の思想に自覚的になる必要があるのかもしれない。

 

私も昔は非行少年であった。だが今はふつうに生活できている。だからなのか、不良品という単語にはどうしても過剰に反応してしまう。しかしながら、それぐらいが丁度いいのかな、とも思う。