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信じるもの

私は無神論者だ。

そうなったのも、私の母がとある宗教の敬虔な信者であったからだ。よくあるのかは判らないが、「信仰する契機は何だったか?」という質問に対して親などの身内の信仰を挙げる人がいるが、私はそうはならずに逆行してしまった。

何故だろうか。何となく見当はついている。それは”強要”である。

私は幼少期から何度かその宗教の総会的な催しに母に連れられて参加していたが、その時は何も違和感はなかった。だが身体が成長し自立心も萌芽した頃から、参加することの、その宗教を信仰することの意義を求めるようになった。考えた結果、信仰する気にはなれなかった。青年期ということもあり親への反抗心もあったのかも知れない。理由はともかく、その私のスタンスは母は激昂させた。「罰が当たっても知らない」とか「何かあれば神様が助けてくれるのに何で」とか「私はあんたのことを思って言ってるの」とか、事あるごとに色々と説教じみた説得をされたが、信仰に意欲的になるどころかどんどん遠ざけるようになった。とにかく押し付けがましさが嫌で辟易していた。それに加えて非科学的で実存的、実証的ではない事が私を無神論者にした。

母が信者になった契機は具体的なことは分からないけれど、自分が苦しかった時に信仰をして救われたから、らしい。私にとっては原因帰属にも思えてしまうのだが、何を信じるかは自由だ。だが、子供の意思を尊重しようとせずに自分の正義を強要するのは止めて欲しい。たとえそれが善意であったとしても、受け手がそれを強要され窮屈だと感じているのなら、それは善意であって善意ではない。それは決してパターナリズムを悪としているのではなく、少なくとも信仰に関しては、である。

人は精神的に苦境に立たされている時に、手を差し伸べ助けてくれた人を絶対視しがちなのかもしれない。心が逼迫していても、心の拠り所があるだけで心理的負担は軽減される。宗教は人々の不安や恐怖心を鎮静化するお薬みたいなものなのかも知れないけど、過剰な服用や副作用には気を付けたい、なんて思っている今日この頃。