たまりんの日記

のほほーんと生きています

経験を積んでいくことは、必ずしも良い影響を与えるとは限らない

人間誰しも、皆平等に歳をとる。
最近、懐かしいと思えるものが多くなった。懐かしさを覚える度に「あぁ、自分は間違いなく歳をとっていて、死に近づいているんだな」と実感する。生きていれば、経験が堆く積み重なっていき、懐かしいものは着実に増えていく。

 

心理学者キャッテルが提唱した知能因子の類型に、流動性知能と結晶性知能がある。流動性知能は新しいことを学習したり、新しい環境に適応し問題を解決するための知能で、結晶性知能は経験から得られた知識を活用する知能である。キャッテルによれば、流動性知能の上昇トレンドは10代後半〜20代後半までで、その後は齢を重ねるにつれて流動性知能は低下で推移していく。一方で、結晶性知能は先の年代を超えても上昇トレンドで推移、維持していくとされる。しかし、最近の研究によると、結晶性知能は高齢になっても維持されながら、流動性知能は50歳代後半頃から必ずしも直線的でない低下トレンドで推移していくことが明らかとなっている。

上のグラフは、総務省「平成29年通信利用動向調査」(2018)より作成されたグラフで、インターネット接続端末の利用者を年代別に分類したものであるが、60代を超えるとスマホの利用率が著しく低下し、逆に携帯電話の利用率が増加する。スマートフォンの登場後、携帯ユーザーがガラケーからスマホへと徐々にシフトしていく中で、60代以降を境目にスマホにシフトできない、乃至は新規利用でガラケーを選択する人の割合が多いように感じていた。その要因は、前述した流動性知能が50代以下の世代に比べて平均的に低い傾向にあり、新しい製品やコンテンツに適応していく能力が低下しているからなのかもしれない。

 

60代を超えたら、流動性知能は低下するが経験が蓄積された結晶性知能は低下しにくく維持されやすい。経験というのは、それだけ人に大きな影響を与える。誰しも新しい環境に暴露するのは心理的負荷がかかるし、ストレスになる。自信がないとき、経験することは良い処方箋になる。経験を積み重ねて学習し行動するトライアンドエラーを繰り返すことで、身体的にも精神的にも涵養され、それが自信へとつながっていく。
「かわいい子には旅をさせよ」
「若い時の苦労は買ってでもせよ」
という諺があるが、これは流動性知能が比較的豊かなうちに多くを経験させて後々の結晶性知能をも涵養するという意味で、理にかなっている。ただ、中年の40〜50代でも流動性知能はまだまだあるし、平均寿命が延伸し人生100年時代へとシフトしていけば、60代を超えても流動性知能の低下は鈍化されていくのかもしれないので、「子」とか「若い時」とかは関係ないのだという認識ももっておいたほうがいいと思う。

 

一方で、経験は過信も生む。
過去の成功体験に固執する人。旧い知識を最新の知識にアップデートできない人。これまでの経験上は常識とされていた事が今では常識ではない、なんてことはいくらでもあるし数え上げたら枚挙に暇がない。経験を過度に重要視すると、物事に対する柔軟かつ弾力的な思考が失われ、知らず知らずのうちにアナクロニック(時代錯誤)的な思考になり時代に取り残される。
経験は順応を生産し、順応は安心を生産する。
ザイアンスは単純接触効果という概念を生み出したが、これは、何回も同じものに接していると次第にそれに対し好感を持つようになっていくという(普段流れているテレビCMの挿入歌を繰り返し聞いていると、ある日気付いたらその歌を口遊んでいたような)、”慣れ親しんだ物が好きになる“という認知バイアスのことだけれども、この効果が経験→順応→好感(安心)というフローを示唆するように、人は過去の経験に縛られやすい生き物なのかもしれない。

 

なぜなのか。それは、ホモ・サピエンスが常に正解を切望し希求し続ける生物であるからなのかもしれない。人は、安心することでこれが正解なのだと誤認しやすい。その正解に絶対的性質を付与してしまうと、これを振り回して他人に強制したり、場合によっては嘲弄することにもつながる。だから、経験に必要以上にすがり囚われないためには、スケプティシズム(懐疑主義)の採用は不可欠になってくる。過去にインプットした既存の知識やそれに基づき形成された言説に懐疑主義的視座を導入することは、認知的負荷はかかるかもしれないが、旧態依然とした社会のパラダイムシフトを促し、日本社会に息詰まりや窮屈さを感じ苦しむ人たちを解放することにもつながる。夫婦別姓同性婚を認めていく風向きに抵抗せんとする人は、この視座が欠落している。懐疑主義を採用しながらも、反対の結論に到達する人もいると思う。それはそれで見解は多様であって然るべきだけれども、少なくとも「常識だから」「伝統だから」「そのように教えられたから」のような理由を標榜している限りにおいては、懐疑主義的視座は導入できていないといえる。

 

 

上の記事のような高齢者運転事故の場合も、経験を過度に重要視した過信が事故の一面的要因となっているとも推察できる。経験を過信すると、時に取り返しのつかない事態になる。後悔しても、時すでに遅し、である。

 

経験は順応を生み、順応は安心を生み、安心は正解を生む。
経験が有用なものになるのか、それとも弊害になるのか。結局のところ、経験をどのように捉え活用するのかは自分の裁量次第ということだ。

自主規制問題の矛盾感

近頃トピックになっている芸人の闇営業問題。この事実を受けて、各放送局は対応に追われている。

 

https://m.huffingtonpost.jp/entry/ametalk-londonhearts_jp_5d11a5ace4b07ae90da26c4b


上の記事にもある通り、テレビ朝日は当該芸人の出演シーンを可能な限りカットする意向のようだ。その他の局も出演シーンのカットや番組の差し替えなどの対応で落着している。今般の事案の問題の根幹が知らなかったとはいえ反社会的勢力と関わりをもってしまったことなのか、その当該勢力から金銭を授受したことなのか、事案発覚当初に金銭の授受はしていないと虚偽の弁解をしたことなのか、事務所である吉本興業との契約を蔑ろにしたことなのか、そもそも吉本興業が芸人に支給する給与が過少でそれに対する不満が背景となりこのような問題が生じたのか、は分からない。恐らく全てに問題があるのかもしれない。いずれにしろ今回関わった芸人は自らの脇の甘さを猛省し、嗜め、諌めなければならない。一方で吉本興業は芸人との契約関係について不具合がないか再考しなければならない。そして、吉本興業以外の芸能事務所も決して対岸の火事とせずにタレントと事務所のリレーションシップを見直すという意味で、これはいい契機なのかもしれない。大仰にいうと、芸能界全体のシステムに問題があるのかもしれない。

 

今般の事案でとても気になるのが、コンテンツを自粛することに対する世俗のレスポンスの温度差だ。ピエール瀧さんや新井浩文さんが逮捕されたときには、「作品に罪はない」などの言説が展開され自主規制への反駁があり論争になったけれど、今回はさほどないように思える。逮捕と謹慎という二つの処遇を天秤にかければ、後者の方が自主規制への反駁が強いはずなのでは?とも思うが、そうはなっていない。逮捕事案のコンテンツ自主規制に強く反駁した人たちはなぜ今回の事案はなんの音沙汰もないのだろうか。その人たちにとっては、ドラマや映画は作品(コンテンツ)でありバラエティ番組は作品ではないということなのだろうか。それとも同じ芸能人というカテゴリでもよりミクロ的な俳優・ミュージシャンというカテゴリと芸人というカテゴリはコンテンツ規制という観点では性質を異にするものなのだろうか。もし仮にそうであるならば、ドラマ・映画とバラエティ、俳優・ミュージシャンと芸人、には目には見えない「階級」が存在するのかもしれない。それとも反社会的勢力との接点があったことに問題があるのだろうか。私には、ピエール瀧さんと新井浩文さんの事件のときにあれほどコンテンツ自主規制で騒いでおきながら、今回は沈黙しているのはなぜなんだろうと些かどころかかなりの具合でダブルスタンダード感満載のような気がしてならない。

 

「見たくないなら見なければいい」
「自主規制は何ら罪のない関係者へのサンクション(制裁)にもなる」
「罪を作品にまで憑依させるのは間違っている」

 

的な感じの見解を標榜していた人たちは雲散霧消してしまったのだろうか。「鉄は熱いうちに打て」というが、打ち損じがあったようである。

「仲間」という言葉が放つ薄気味悪さ

どうも「仲間」という言葉が好きになれない。というのも、「仲間」を平然と使用している人に限って問題が発生すればその「仲間」を易々と切り捨てる印象があるからで、もう純粋に仲間という言葉を眺められるのは漫画やアニメの世界くらいしかないのではないかというくらい、「仲間」は空想・想像・幻想・架空・娯楽的要素を暗示するメタファー的性質を保有していると思っている。漫画やアニメで語られるそれは決して裏切らない。

 

「仲間」は聞こえだけはいいが、実際のところ中身は空っぽの虚無的な言葉だ。UFOキャッチャーで獲得した大きなお菓子箱の中身がこれでもかというくらい少量だったり、ジャムパンを食べていたらジャムまでなかなかたどり着かないガッカリ感と似ている。比喩が適切かともかくとして、要するに期待水準に対する達成水準があまりにも低すぎるということ。

 

現在、私が観測する限り「仲間」はその場しのぎの弥縫策のような用途に与している。例えば組織内で摩擦や軋轢が生じたとき、それらが生じた原因の把握と改善策を考える必要がでてくるが、人間関係の摩擦や軋轢は、組織のシステムやアーキテクチャの柔軟かつ弾力的な変革だったりで対応できるものだが、業務上どうしても対応できない場合もある。そんなときに、「仲間」の出番が回ってくる。
「仲間なんだから一緒にがんばっていこう」
「おれたち仲間だろ、な?」
「仲間なんだからそれくらい許そう」
みたいな、気休め程度の感じで「仲間」は消費される。

 

どうしようもなくなった最後の選択肢として「仲間」がチョイスされるのは、組織の擬集性や士気が一時的にでも高まり取り敢えずはそれで落着するからで、当たり前だが「仲間」を持ち出したところで問題の根本的な解決にはならない。つまり「仲間」は集団組織内のゴタゴタを沈静化したい人が問題を一時的に棚上げして先延ばしにするだけの便宜的に運用する程度の方便でしかなく、瓦解しそうな関係性を一時的に繫ぎ止める紐帯のような役割しか担わない。

 

また、普段から仲間仲間と宣っておきながら、その仲間が失敗したら踏み台にしてマウントを取り優越感に浸っている人は悲しいかな少なからず存在する。そういう人は常に他者と自分を比較し、優劣を気にしている。同時に劣等感に苛まれやすい人でもある。比較を自己研鑽のインセンティブ(動機付け)として使うのではなく他者を貶め揶揄嘲笑し自己肯定感を得るために使う。「仲間」はそのような人たちが他者を踏み倒すための好都合な言葉に堕落してしまっている。

 

恐らく、本当の仲間は「仲間」という文言を使わない。そんな言葉を使う余地もないほどにラポール(相互信頼)が構築されている。だから、都合よく「仲間」という言葉を引き出す人は、正直信用できないし手練手管で人心を掌握せんとする狡猾な人のように思う。恣意的に利用する人以外で純粋にそれを信奉している人もいるのだろうけど、あまり信用できないほどに私の頭はレスポンデント条件付けの如く「仲間」を頑なに拒絶している。

 

そういう意味で、「仲間」という言葉やそれを含む言説にはある種の気持ち悪さを覚える。距離を置いたほうが得策じゃないだろうかと考えているが些か過剰なのかもしれない。しかし、レトリック(美辞麗句)には注意しなければならないし、発言されたその言葉の真意はどこにあるのか考えることに少なからず意味はあると思っている。

小さな権力者

権力に実体はない。

 

「サピエンス全史」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリさんの言葉を借りるならば、権力は国家や企業や宗教、貨幣などと同じで、人々がその価値を強く信じるが故にその存在が認められる「虚構」である。だが、たとえ虚構であると理解していても人は実体のない権力の存在を強く感じ、意識してしまう。権力は政治家や企業のCEOとか、何か特別な地位に位置付けされている人々のみに必ずしも付与されているものではなく、もっと身近なところにある。それが、例えるならば先輩と後輩、上司と部下の関係性でいうところの先輩と上司であって、たとえ年齢や勤続年数がたった一年の差であっても、何らかの関係の中で「先」「上」というポジションにいる人には権力が生じている。だから、権力が不当に行使されていないかどうか監視するという意味で、こういった“小さな”権力者達も自らの権力に対して自覚的にならないといけないのだが、そこのところを理解せずに知らず知らずに権力を振りかざしている人は少なからずも存在する。

 

そういう人が、知らず知らず権力を振るってしまい相手を傷つけたときに言う弁疏というか常套句は、往々にして「そうするつもり(意図)はなかった」とか「また何かあればすぐ注意してくれればいい」であって、これは裏を返せば「意図がないのだから許してくれ」「おれは自ら変わる気はないよ」という意思表明でもあるわけで、つまるところ、権力に無自覚な人は「自分には権力はない」「(相手と)対等な関係を構築できている」と誤解・錯誤しているのである。

 

また、権力に無自覚ではないものの自らの権力の大きさを正確に測りきれない人もいる。「何かあれば質問してもらって構わない」と一言斟酌しながらも、質問しなければ「なぜ質問しないんだ」と諌めるのは、これだけ言っておけば大丈夫だろう、と安心し自分は上下関係に配慮しているのだからあとはそっちの問題だと考えているからで、権力によって生じるコミュニケーションの壁を取っ払らうことができていると誤解・錯誤している。権力の存在はそんな簡単に希釈できるものではない。希釈するには権力者側からの継続的且つ能動的なコミュニケーションが必要だ。ただ、コミュニケーションを取るにも注意が必要なのは、距離を縮めるためにふざけたり、下品になったりするときに、そこに不自然さ(意図してやってる感)が介在してしまうと逆効果になってしまう可能性もあるので、その辺りは念頭に置かなければならない。

 

無論、権力関係(上下関係)を全くもって気にも留めない人もいる。だけれど、そういう人は経験則上マイノリティであると思うし、多くの人は少なからず意識してしまうだろう。忌憚なく会話できる関係を構築するのは本当に難しく、粘り強く接していく必要がある。

 

権力を掌握するものはその大小に関わらず、その優越的地位を自覚し弱い立場にある者が萎縮しないよう最大限配慮せねばならない。それが先輩であり上司である権力者の務めだ。この世俗に年功序列ヒエラルキーを重んじる精神がある以上、社会生活を送る全ての人がエスカレーター式に”小さな”権力を握ることになる。それに気付くことなく後輩や部下に対して「聞きたいなら聞けばいい」的なスタンスで接し、聞いてこなければ「なぜ聞いてこない」と憤慨するようでは、後輩や部下は更に聞きづらくなるだけだし、そのような文化を醸成するとミームが継承され同様の人間を再生産してしまうだろう。


権力が権力たり得る実効力を有する所以は、スポーツにおいて負ける選手がいなければ金メダルを獲得してもその価値がないのと同じように、権力を振るわれる側がいなければ権力の価値がないことだ。故にスポーツ選手は自らが下してきた選手をリスペクトせねばならないし、これは権力者にも同じことがいえると思う。

 

普段から後輩や部下に対して自由気ままに講釈を垂れているのなら、自分だけでなく「下」にいる者も自由気ままに動けるように最大限努力するのが「上」に立つ“小さな権力者”たる者の“ノブレスオブリージュ”ではないかと思う。

「不良品」という単語がもつ意味

 

f:id:tama-2:20190605212019p:plain


川崎殺傷事件に関して、ある人は「人間が生まれてくる中で、どうしても不良品っていうのは何万個に1個、絶対に生まれる。」と言及し、その発言に呼応するかのように、ある人は「サイコパス遺伝子を持った個体ができるのは人間以外の生物でも見られます。突然仲間を殺傷し始めます。」と先の見解に賛同したようだ。

 

これらの言説について違和感を覚えるのは、「生来的」「先天的」「遺伝的」などのアプリオリ関連の主義主張がふんだんに盛り込まれていることだ。これらが結局のところ言いたいのは、「人間のパーソナリティや、それに基づく行為は生まれながらにして決定されている」ということで、「不良品」という言葉はそれを端的に形容していると思う。

 

人間のパーソナリティに遺伝子は少なからず影響するだろうけども、生まれてから自分が置かれる環境や境遇、その中での社会的相互作用にも影響は受けるはずだ。そもそも、遺伝と環境という二つの概念はどちらが正しいかを争うような二項対立する概念ではなく、表裏一体の関係性であって、だからこそ、生来的、先天的、遺伝的性質にラディカルに傾斜している「不良品」という例えは、環境というファクターを無視した一元論に終始することで、社会的逸脱者に対する峻厳で秋霜烈日な態度を肯定し、罪を犯した人や前科のある人たちへのステレオタイプ、偏見を助長して、再チャレンジの機会や社会復帰するための障壁を増強し、社会福祉の後退を促す。平然と他人のことを不良品と開陳できる人は、「このジャガイモは傷物だし、商品にならないから廃棄処分だ」的な感じの歩留まり的な観点で人を見ている。

 

論点をすり替えているつもりはない。無論、犯罪にも大なり小なりはある。だが、人間は認知不可をかけたくないがあまり、物事の奥深くの複雑さから目を背け、表面だけを見てしまったり、単純で浅薄で短絡的なステレオタイプ思考を志向してしまいがちだ。或いは他人への峻厳な態度を示すことで、自尊心を向上させたり、自らが優良品であるということを悟りたいのかもしれない。そういう意味で、たとえ殺人鬼であったとしても不良品などという文言を堂々と言ってのけるのは、罪の軽重を問わずして前科のある人たちに対する負のラベリングを加速させることになるわけで、不適切であり、愚妹であり、詭弁であると言わざるを得ない。

 

それにサイコパス=殺人鬼ではない。脳科学者の中野さんの著書「サイコパス」には、大体100人に1人の割合でサイコパスが存在することが様々な研究で明らかにされていると記載されている。つまり、サイコパスの中でも大半の人はふつうに日常生活を送っているし、恐らく、気付いていないだけで誰もが一度は接点を持ったことがあるはずだ。であるから、サイコパス=殺人鬼乃至は犯罪者みたいな認識を持つこと自体、誤謬なのは自明である。

 

「生来的」「先天的」「遺伝的」「生得的」のような、アポステリオリを無視したアプリオリ一辺倒の論理を展開する人が最終的に帰趨する着地点は、「優生思想」である。旧優生保護法の下で実施された強制不妊手術は、障害を抱えながらも子供を産みたい、育てたいと望む人々に対して、「不良品」というレッテルを貼り、その意思を軽んじ、人々の尊厳や人権を著しく蹂躙した。2019年5月28日、その旧優生保護法下における強制不妊手術に対し、裁判所は幸福追求権を規定する憲法13条に照らして違憲判決を下した。だが、そのような判決がなされた現代社会においても、残念ながら優生思想は静かに息を潜めているようだ。そしてそれは自分自身が統括している意識の外にある無意識的な世界で跳梁跋扈しているのかもしれない。であるならば、今一度自分自身の思想に自覚的になる必要があるのかもしれない。

 

私も昔は非行少年であった。だが今はふつうに生活できている。だからなのか、不良品という単語にはどうしても過剰に反応してしまう。しかしながら、それぐらいが丁度いいのかな、とも思う。