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未来と死

私の友人が亡くなった。交通事故だった。

友人は私と同じ年齢で高校の同級生であり、卒業後も親交があったために一報を聞いた時は衝撃で体が震えた。友人には夢があり、自己実現のために奔走し始めた矢先の出来事で、私としてはこれからどのような人生を歩むのか友人として楽しみであっただけに残念としか言いようがない。本当に悲しい。

この友人の死が契機となって、一昔前に自分が考えていたことを思い出した。それは人は(生物は)いつか必然的に死ぬというメメントモリであり、問題なのは自分がいつ死ぬかということで、いつ死ぬか不明瞭だからこそ常に最善の選択を意識し積み重ね、後悔のない人生を送ろうということだった。

これは私の人生の中では結構重要なことなのだが、すっかり忘却していた。それを友人の死で想起したのだ。それにしても、いつ死を迎えるかわからない人生の中で、なぜ人は夢や目標を持ち自己実現を図ろうとするのだろうか。いつ死ぬか不明瞭なのに、私たちは自分の未来が訪れることを当然のように思って努力し、自己研鑽をしている。

死を迎えたら、自分が努力してきたことも何もかも全てが泡沫に帰すのだ。それでも私たちは自己の未来の想像をせずにはいられない。夢を叶えた自分を、仕事終わりに任天堂スイッチをしている自分を想像しながら今を一生懸命に生きているはずだ。逆に言えば、未来に対して悲観的に憂慮することもできる。いずれ訪れる未来に対して楽観的であっても悲観的であっても、明暗あれども、来るべき未来に自分が存在していることを前提として考えている時点で、人間は案外ポジティブなのかも知れない。そういうポジティブが、先天的なものなのか、後天的なものなのかはわからないが、いつ死ぬかわからないからこそ、人間は生命への執着を、願いを持ちながら生きているのだと思っている。

 

信じるもの

私は無神論者だ。

そうなったのも、私の母がとある宗教の敬虔な信者であったからだ。よくあるのかは判らないが、「信仰する契機は何だったか?」という質問に対して親などの身内の信仰を挙げる人がいるが、私はそうはならずに逆行してしまった。

何故だろうか。何となく見当はついている。それは”強要”である。

私は幼少期から何度かその宗教の総会的な催しに母に連れられて参加していたが、その時は何も違和感はなかった。だが身体が成長し自立心も萌芽した頃から、参加することの、その宗教を信仰することの意義を求めるようになった。考えた結果、信仰する気にはなれなかった。青年期ということもあり親への反抗心もあったのかも知れない。理由はともかく、その私のスタンスは母は激昂させた。「罰が当たっても知らない」とか「何かあれば神様が助けてくれるのに何で」とか「私はあんたのことを思って言ってるの」とか、事あるごとに色々と説教じみた説得をされたが、信仰に意欲的になるどころかどんどん遠ざけるようになった。とにかく押し付けがましさが嫌で辟易していた。それに加えて非科学的で実存的、実証的ではない事が私を無神論者にした。

母が信者になった契機は具体的なことは分からないけれど、自分が苦しかった時に信仰をして救われたから、らしい。私にとっては原因帰属にも思えてしまうのだが、何を信じるかは自由だ。だが、子供の意思を尊重しようとせずに自分の正義を強要するのは止めて欲しい。たとえそれが善意であったとしても、受け手がそれを強要され窮屈だと感じているのなら、それは善意であって善意ではない。それは決してパターナリズムを悪としているのではなく、少なくとも信仰に関しては、である。

人は精神的に苦境に立たされている時に、手を差し伸べ助けてくれた人を絶対視しがちなのかもしれない。心が逼迫していても、心の拠り所があるだけで心理的負担は軽減される。宗教は人々の不安や恐怖心を鎮静化するお薬みたいなものなのかも知れないけど、過剰な服用や副作用には気を付けたい、なんて思っている今日この頃。